メメント・モリ

いつか必ず死ぬことを忘れるな

聲の形を読み終えて

聲の形(1) (講談社コミックス)

聲の形(1) (講談社コミックス)

 

 前から噂は聞いていて、当時は読み切りだった?気がして、読めないのかなあと考えていたら、単行本になっていました。

 久しぶりに復活させたKindleで試しに一巻を読んでみたところ、これはすべての物語を読むべき漫画だと考えました。

誰も傷つけずに、生きてこれただろうか

 私たち人間は生きる上で、誰一人傷つけずに生きていけるものでしょうか。
 聲の形は、聴覚障害をきっかけにいじめや崩れ去っていく友情、踏み入る勇気、恐怖、一気に転じる世界、押し付けられる正義感、溢れる悪意と本音……
 すべてが、押し込められていた作品で、まるで自分の歩いてきた道を押し付けられた気がしました…
 ざわざわとする嫌な感情で人を傷つけたり、意見の相違やすれ違い…
きっかけはなんであれ、このような話は日常に溢れていると思います。だから辛かった。

後悔のしない生き方

 勇気を持てたら、変わる。
 何もしなければ、変わらない。
 
 友達の定義って私もよく考えました。このことを考えるのって、友達がうまく作れなかったときなんですよね。
 私も途中までうまくいっていたのに、
 環境が変わり、自分の努力を怠って逃げて逃げて逃げ続けていたら、一人ぼっちで孤独になったときがありました。
 石田くんみたいに、誰とでも分け隔てなく喋ったりする友人といえる人はたくさんいたのに、一気にひとりぼっちになった。
 人と会うたびに噂をされてるのではないか、
 バカにされてるのではないかと考え込むことが増えた。
 あの忌まわしい記憶のすべてがこの漫画には書いてありました。

ごめんなさい、と言える勇気

 石田くんの驚くべきは、その行動力です。
 私もずっとずっと悔やんでいることがあります。
 くだらないことがきっかけでケンカして、
 2人で楽しみにしていた旅行も行かず、
 卒業式だって一言も喋らず。
 ケンカはたまにはしてたから、いつか仲直りできると思ってました。
 でも、仲直りはできなかった。同窓会も気まずいのか一回も参加してくれなかった。
 あの時のことを謝りたい、と正直私は思います。
 でも、その勇気がなかった。
 だからその勇気をまず持てた石田くんはきっと強い人なのでしょう。
 たとえ自己満足の類であっても、そのような相手には普通の精神では会いにいけないし、不思議です。
 でもきっと会ったらもしかしたら。
 関係が変わるかもしれないし、変わらないかもしれない……
 石田くんが勇気を持ったきっかけは、すべてを終わりにしたい、という追い詰められた感情から、というのもありますよね。
 意地を張るような別れ方でもなかったというのもありますが…

繰り返す過ち

 私のことです。
 ごめんなさい、が言える人間になりたいと、聲の形を読んで思いました。
 人を傷つけて反省するのに、また繰り返してしまう。
 話すことの大切さは、たくさん教えてもらったのに。
 後悔したくない人間関係を作りたかった。
 ごめんなさい、と謝れないまま引きずるあの日のことを今も忘れられないのに。
 今すぐにはあの後悔を取り返すような気持ちにはなれないけれど、いつかまた向き合えると信じて。そしてまた繰り返しそうなときには、聲の形を読んで感じたことを思い出せたらいいな、と思います。
 
 小学校の頃もよく、くだらないケンカをしました。ケンカをした後は特にそのことは触れず、気づけばまた遊んだりしてましたが、一回だけひどいケンカをした男子に呼び出されたことがありました。
 また取っ組み合いのケンカか、バカにされるのかと思いきや、その男子は「ごめんね」と謝ったのです。
 それから、握手して、また明日から遊ぼうといってくれました。
 びっくりして、嬉しくて、それからはケンカしても必ず仲直り…してたのです。
 
 でも大人になると意固地になることも多くなりました。自分は間違ってない、なぜ謝る必要があるのだろう、とそんなことを考える。
 若かった頃の、自分の過ちを認められるあの頃に戻りたいな、とも感じました。

疑心暗鬼は自分が作る

 人と人の会話の隙間に入り込んでいると、誰かの噂をすることがある。誰が誰をどう思っているのかとか、誰のことがどうだ、とか。話してみて、この人、あの人のことをこんな風に思ってるのかって思う。人間だから、それは当たり前のことなんだと思います。私たちは人間だから。「どう思うか」なんてよくある感情だと思う。

 でも果たしてそれが自分が言われてるのかと思うとたまらなく嫌になる。嫌われているんだ、とか、自分の嫌なところなんて散々わかってるのに自分じゃない誰かにそれを見つけられて、チクチクと言われている気分になる。

 時々こういったことを気にしても仕方ない、思ってるより他人は自分自身に関心はない、人生は他人との違いを見つけることでも、競うことでもない、自分を生きるってことなのだ、「人生」の人とは、「他人」の人ではなく、「自分」なのだ、自分が「人」なのだ、だから自分を生きるんだ・・・とか、そういう言葉を思い出して励ましていくのだけれど、すぐにだめになる。

 他人の評価が気になって、どこかでまた馬鹿にされてるんだろうなあという渦に飲まれながら辛くなる。気にしても仕方ないことがわかってるのに気にしてしまう。性格なんだな、と思うけれど、こうして疑心暗鬼は自分自身で作っていく。だから心を許せる相手がいない。そして相手も心を許してくれない。永遠に1人ぼっちなのだなあと感じてしまう。

 ・・・それでも最近は「楽しい」を一緒に共有できる人がいればいいな、と考えた。嫌なところばかりは互いに見て、落ち込むより、嫌だって気持ちはそれはあるのかもしれないけれど、たくさんの「楽しい」でそれを上書きして・・・ごまかすわけではないけれど・・・、そうやって、生きていけたらいいな、と最近は常々感じています。寂しいのだと思う。1人は好きだし、慣れてるし、別に不便には思わないのだけれど、ただただ、寂しいのだと、思う。

 そういった意味では本音と建前ばかりのSNSの世界は生きづらいし、自分に向いてないし、やめたいって思うけれど、ネット依存症の自分はどうしてもついついそこへ逃げこんでしまう癖がある。もはやこれ聲の形と関係ないけれど、読んだきっかけでふつふつと沸いたことなのでせっかくなので書いてしまいますね・・・。

イジメとイジリ

 最初は小さいんです。イジリ、とでもいいましょうか。昔から私もからかわれたり、煽られたりするものでよく経験しました。
 やってる本人は、イジメをしているという当事者意識ゼロなんですよ。
 遊びとか、イジリだよ、とか言うんですよ。少しだけ怒って反論すると、「何マジになってんだよw」とか言われちゃう、アレです。いわゆる「空気読めよ」というやつです。俺様にイジられてろよ、というヤツです。
 イジリでも人は嫌な言葉をかけられたら傷つくし落ち込みますよ。
 でもやってる本人は、どんな罵声を浴びせたのかすら覚えてないんですよ。
 言われた方は心刻まれるほど覚えているのに。
 時々へらへらと何気ない顔で自慢そうに誰かにしたいたずらや、かけた言葉を自慢する人がいます。
 そしてこういう人に限って自分がその立場になると、あからさまな嫌悪感を示すんですよね・・・なんでなんだろう。いつも不思議です。イジられつづけてウン十年の自分統計の中だけですが。
 
 あなたがその言葉をかけた時、相手はもしかしたら「苦笑い」してたかもしれない。もしかしたら「一緒に笑った」かもしれない。「震えて」いたかもしれない。「泣いてしまう」あと一歩だったのかもしれない。
 
 心のコップにどんどん痛みと悲しみを注いでいって、それを溢れないように無意識にバランスを取りながら、毎日「そうだね」と笑ってるのかもしれない。それに誰も気づかないまま、急に溢れるまで、傷つけているあなたは、ずっと気づかないのかもしれない。
 
 もう1度、あなたがかけるその言葉の意味をよく考えて見て欲しい。一度口から出た言葉はもう元には戻らない。
 出て行った言葉は相手の耳に届いて溶けて、色んな感情に変わる。
 
 そしてあなたの明日も、この「聲の形」みたいに、変わってしまうかもしれない。
 
 言葉をかけられている自分も、気づかないうちに注がれていく負の感情に気づいてほしい。笑っているけれど、本当は言われて悲しいことたくさんあったはず。
 バカにされてるんだ、って思うときもあった。でも怒ると空気が壊れる、とかそう思ってるかもしれない。
 
 ずっといわれ続ける自分が嫌で、悔しくて悔しくて暴れたいときだってあった。
 
 時々、今こいつをぶん殴ったらどうなるんだろうとか私は考えた。自分だって出来のいい人間じゃない、頭がカッとなったらきっとぶん殴ってたかもしれない。でもぶん殴れない。もう子供じゃないし。子供だったら殴っていいのかというと違うけど。子供のときにでもぶん殴っておけば、大人になったときに自制が効かない人間にさらになってしまうのか、それとも、想像ができる人間になって、自制心が利くような大人になるのか。
 人間、言われ慣れてくると、自分から自分をこきおろすようになります。よくいう、自虐ですね。
 自分で自分を最初に傷つけてしまえば、それ以上に誰かに傷つけられることはないだろうとおもって、自分から傷つける。自虐ネタとかいって、そういうのをお笑いネタにしてる人もいますけどね・・・。自分が楽しいならそれでいいと思います。
 行き過ぎた自虐ネタが重すぎて周りが引くってときもあるし、自虐ネタを何の気無しに使ってる人もいると思います。でも私は親から散々言われた事とかは、やっぱり辛いし傷つくんだけれど、もう感覚麻痺してるから自分で言って気持ちを楽にしようって思ってます。
 リストカットが自分の身体に傷つけて気を引く行為なら、自虐は自分で心を傷つけて自分を守る手段なのかもしれないなあ、と感じます。これ以上傷つけてほしくない。自分でわかってるから。自分でいって皆に笑ってもらえたほうがいい。そしたら、もしかしたら「このこと」は自分にとって、そんなに辛いことや悲しいことじゃないんじゃないだろうか?って一瞬でも痛みが麻痺するような気がして。
 
 とりあえず、江戸しぐさなんてものを流行らせるより道徳の時間ではこういった時代に沿ったリアルな読み物を身近に触れて感じてもらえたほうがいいのではないかなと思う。
 
 後悔を重ねないために。誰かを苦しめないために。自分自身を苦しめないために。
 
 色々書いたけれど、イジメもイジリも、自分がやられただけでなく自分も無意識にやってることだってあるんだってことは無意識の中で自覚してる。その時は気づいてないかもしれないけれど、自分がやられて嫌だってことをやってしまっている可能性は絶対にある。でも自分がごまかすように相手もごまかしてるかもしれないし、意に介してないかもしれない。そこのやりとりでお互いを牽制していたらきっと、何もお互いの中で成り立たない。そういう意味では、あまり萎縮せずに言葉をかわしていきたいとは思うけれど、頭の片隅に「あ」とこのことを自分が思いだせるように、書き留めた。 
 
 そして「聲の形」に関しては夏休みの読書感想文みたいな文章になってしまったけれど、久々に考えさせられる良い読み物でした。あの話を読むだけで自分の思うこと感じることをこれだけ引きだせるストーリーって初めて読みました。いつも心の中に巣食って自分を苦しめるモノの正体とほんの少しだけ向き合えた気がします。心が震えました。ありがとうございました。