要約すると、そんな言い方せんでも違う言い方してくれたらよかったのに、とかいう圧倒的に自分が悪いくせに、わかってはいるが、貴様の言い方が気にくわないみたいな、斜め上案件という話を壮大に書いてみただけだなと書き終わって気づいたので最初に書いておきます。
昔からアニメやゲーム、漫画が好きで、まあ度が過ぎてるとか思うんだけど、でもそれを尊重してくれたり、理解してくれたり、一緒に好きだって言ってくれる人の方が多くて、それが当たり前なのかもしれないって若干勘違いしていた。
本当、周りが優しかったんだね。
自分が好きなものの話をするときにそうなんだ、って聞いてくれたり、興味があるように聞き返してくれたり、それ私もわかるー!とか。
趣味についてよくわからないって拒否されるのはまあ、自分にだって理解できないものはあるけれど、自分が理解できないを超えて相手をどうして執拗なまでに否定する必要があるのかわからない。
一方だけの、自分だけの視線になってしまうからあれだけど、文章にしたら気持ちが整理できるかなと思ったので書く。
執拗に否定されたというか、同じ言い方にしても物のいいようってあるよなと思っていて、少なくとも私の趣味が相手に不快感を与えているとしたなら、それは謝るべきところであって、本当に申し訳なかったと思うことはある。
今回の件に限らず、本当に物は言いようだな、と思うことが多々あって、同じようなことを実際は言われてるのだけど、その人の言い方ひとつというか、物腰が柔らかいというか、注意にしても、ああ本当に申し訳なかったな、気をつけます、という気持ちになるときと、なぜいきなりこんな風に言われなきゃならないんだ? と先に怒りがこみあげてしまうときもあって素直に自分が悪くても、そんな言い方される筋合いはない、が先に立ってしまって、素直にごめんなさいができなくなる自分の狭量さに辟易する。
それなのに、素直に謝れないのに謝る自分もどうなんだよ、とか思ってしまうから人間として本当に質が悪い。
ありがとう、ごめんなさいって簡単なようで本当に難しいもので、自分は指摘されるにしてもその人の言い方ひとつ次第で受け取り方を変えてしまう。
今までの関係性とかで、指摘が上手であったりとかで、この人に言われるなら、とか、確かにその通りすぎる!とか、どうしてそう思ったのか?っていう話から入ってもらえると話してるうちにお互いの主張がわかるので、なるほどな、ってなったりするんだけど、一方的に主張されると理解はできるけど、その言い方は納得はできない、みたいになってしまう。
私は自分が理解できないものは、理解してみようとは思うけど、自分自身を理解してほしいとは思ってない、と言いつつ、こうして理解できないと否定されると悲しくなるというわけのわからなさを抱えている。
書けばまとまるかと思いきや全然まとまらなかった。
けど、やっぱり痛感したのは、私は確かに周りの人に恵まれていて、家族だったり友達だったり、私という面倒くさい人を面倒くさいなりに受け入れてくれているから自分がいるのであって、(できなくて疎遠になったりもするけど)、それは、けして当たり前のことではなく、ほんの些細な主張の違いで互いに譲れなくなるかもしれないけど、それでも考え方だけではなく「その人」として相手を尊重し続けることができるからこそ、人間関係を続けていけるのだとしみじみ感じた。
人と出会って、1番気づいたのは、自分にないものを持つ人への尊敬がなければならないな、ということで、私はそれに、この数年であらためて気づかされたなあと思う。
ただ極端なので合わないなと思ったら決別をすぐ感じるので(早々に生じる矛盾)、今回の件は遠慮なく決別してよいのだと若干の安堵すら今感じてる。
なんにせよ、理解してもらえるということは当たり前ではないということ。
本当に本当に稀でありがたいということ。大切な人たちに甘えすぎないこと。
あと今回の件で自分が言われるより人がそんな言い方をされることのほうが何十倍も辛いことがわかった。
自分の痛みは自分でこうして消化できるけど、人が受けた痛みは察せてもどこまでか量れない。
気にしてないって言っていても自分が思う以上に傷ついているかもしれない…。
それがもどかしくて辛くて、人の痛みを分からないなりに感じる辛さ、なのかもしれないと思った。
自分の態度1つで人を巻き込んでしまう、本当に良くないなと思った。
これも傷ついてるのかな? とか考えてる自分が傷ついてて本当に相手の痛みを察せてないんじゃないかとか考えて嫌になる。
でも苦しくて悲しいという事実だけはそこにあって、それは、確かだった。