クズといわれても笑う

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あの日を自分を殺したいと思うかどうか

時々暴走気味に、これでよいのだろうと思ったことを思い立ったが吉日みたいにバンバン決めてしまうんだけど、よくよく振り返ると、今まではそう思い至るまでに、少しだけ恐れや、失いたくないという偽善的な逃れがあって、今それがあるかというと、それが薄れているので、ちょっとハズレれてはいるのだと思う。

とはいえ卑怯の繰り返しの上塗りで、言いっ放しの卑怯なことばかりが続くのであれば、もう少し周りを固めてしっかり消毒しましょうという気持ちがあるのと、あーだめだーという気持ちの落ち込みが交互に重なって、一瞬「やるんじゃなかった」って思うんだけど、結局はそうしたい気持ちがあって、それはきっと誰にも理解してもらえるものでもなく、理解してもらえる人と一緒にいるつもりだったのだけど、結局は理解してもらえてるふりであって、そもそも自分が理解してもらえないと思っているのに「わかるよ」といわれても、それは額面通り受け取れるわけないのだから、それはもう人間と人間いる限り、すれ違いのなんだと思う。

歯車のようにそれが噛み合うことは永遠になくて、生きている以上に永遠に孤独であって、わかるよ、ということよりも、仕方ないよね、という諦めの境地で抱かれて、ごめんねっていう言葉ですべて諦めたり、取り戻したりしたいのだけど、その一歩をぎゅっぎゅって踏みしめる度に、あの日の自分を殺したいと、これから先の未来の自分が思うのではないかと、そんな風に思うけれど、今の自分はどんな過去を選んできた自分でも殺そうとは思わなかったのだけど、自分は自分を信じていて、間違えても、許しは乞わずとも、やり直せないことなんてナイと思ってたのだけど、いつか、もう決定的に間違えたぞって後悔する日が来るのだろうと思う。

というか自分が嫌いなのと同時に自分のことが他人よりも優位にたっていて自己犠牲なんて、偽善だと思ってるような人間だし、死ぬほど信頼したことがないと思うから信頼されることに自信持てないし、死ぬほど信頼したい人を探してる。

手紙を読んだり、家にいたりして、「この文字書いた人もう死んでるのかよ」とか思ったり、この家にいた人もう誰もいなくて、思い出だけ話してるとか、真面目にどういうことなんだ、悩んでるわりにあっという間に時は過ぎて、「気にしなければいいよ」と思うくらいに楽しい日々を過ごせたらと思うのと、気にしなければいけないよと思うほどの絶望を抱きかかえて、さっさとこのぐるぐるした世界から飛び抜けて、誰の声も聞かずに、自分は最終的にこう思ってたという最高のきっかけを今月でも来月でもいいから、とっとと背中を押してくれ、自分だけじゃできないから、という気持ちでいっぱいである。

正しい思う言葉で自分の態度を責めるし、それは間違っていると思うことを表向きの曖昧さでごまかすのはもうやめよう。様々な悩みに置き換えて読んでいこう。悩みに主語はいらないし重ねて燃やしていこう。それが正しいのか間違ってるのはか知らない。