頭のよい人たちがPRをつけるつけない問題を正しく解説している中で、ただのインターネット彷徨いおばさんのかんそうです、Facebookの揉め事から読んで「なんのはなし???」って思ってたらhagexさんがまとめてくれてて、ここ読んでなるほどなるほどなるほどザ・ワールド感あったので、記事はっておきます、
PRがついてたらクリックするか?
クリックしない、読むものがなくなってきたら仕方なくクリックする。
だってもうPRって書いてあったら私は広告です!!!って言われてる感じになるから、インターネットで広告を読みに来ているわけではない私は「広告は別に読みたくない」という本能的な、無意識的に回避してしまうのだとおもう。
なぜ広告は別に読みたくないのか?
インターネットがあまりにも嘘つきばかりで、騙そうとしている人たちがいるってことを、おねっとサーフィンをキメてるときに散々知ったし、そういう人たちがいるっていうことを、経験してきてしまってるから。
今広告を作ってる人たちや、たとえばヨッピーさんたちがそういうのを変えようと思っても、PRとか広告とか、そういうのはもう刷り込みなんですよね。
だんだん、そういうのは許せんぞみたいな人たちもいるってことはわかってきたけど、最初のインパクトはどうも消せなくてインターネット広告被害者老害みたいになってる、でもあんな広告の貼り方や、やり方みせられたらそうもなるわと開き直りたくなる現状がそこにあった。
今の新しい人たちは、そもそも何が正しい広告で何が悪い広告なのか、おじさんたちがざわざわしているのすら「どうでもよくね」みたいな気持ちになるのもすごくわかる、そういうのもありきというか、広告がうまく融合した世の中の価値観を通して生きてきているから、そこまで広告に関する忌避感はないのかな? とも思う。
それも人それぞれだろうけれど・・・。
PRや広告表示がない記事を読んで後から広告ってわかったら?
ようするにステマだったり、お金もらって書いてたり、とか、そういうのを後から知ったら。記事開いた後の最後にバーンと「これは広告です!!!」って言われたら?
あとはどこからから漏れ出してあの記事、ステマ、自作自演だったんだって、と言われたら?
嘘ばかり書かれてて、肝心なこととか、大切なこと書かれてないままで買ってしまった、という時点では「フッザケンナヨ」とはなるかもしれない。
広告だったら買わなかったのに!!! とまでは思わないかなぁ・・・。
自分本位なので自分が結果的に「損」したのか「得」をしたのかで態度翻すと思う。
別に得してるんだったら噛みつかない(時間のムダ)と思うし、
損をしたなら「騙されて時間の無駄」と思って逆に噛み付くかもしれないし・・・。
新たな情報として何かを得た、まではいいし、そもそも広告を見たことで私はギガが減るというまでの損までは感じないから・・・。ここは価値観の違いだよね。
「この記事はお金をもらって書いているので、クライアントさんのチェックが入っており、個人の意見は死んでいます」みたいな記事も、私はその人が商品やサービスを、「おおお!!! すごくいい!!! みんなものすごくつかってくれ!!!」って自主的に思った上で、広めてくれる文章の方が大好きなので。
例えば、キンプリの感想だって、お金あげるから書いてっていわれたら私は逆に書かないです、
華アワセの話だって、自分が面白いと思うから書くのであって・・・
お金もらった時点でお金くれた人の顔色伺わなければいけないんでしょって思う時点で萎えます、だからライターとしてそういう記事書いていける人はすごいておもうけど、例の記事におけるヨッピー氏はそれを仕事にしながら自分のポリシーを守っていくという仕事をしてるんですよね、そういう点においてはすっげーなとおもいます、元々自分が書き散らすようなクオリティの記事とレベルが違うので、立場が同じだとおもって書いてんじゃねーぞ、って怒られそうだけど。
まあそういう、ヨッピーさん自身の自分の作るコンテンツへの自負というか誇りというか、俺は違うぞっていうところに鼻がつくという人もおるのかもわかりません。
でも自分で作ったものに誇りをもってお金をもらって、ていうのの何が悪いのかもわからないし、自信をもって「これはよいものです」といえるものを作れている、というのは良いのでは、ていうか、お金をもらって仕事してるんだから、おれはよいものを作ってるって思ってていてくれーーーという押し付けがあります。でも、迷っていてもよいんじゃないかな、とおもいます、だって人間だもの。
「これは広告ですのでえ」と書かれてしまうと、そこはもう楽しめないので、好みではなくなってしまうんですけど、ヨッピーさんとかの、ライターさんが書いてる記事広告ってクライアントの目が入ってるわりに、「おいこれでいいのか」みたいな攻め方するから、そういう「記事広告」というものを新しいジャンルとして「読ませるもの」にしていきたい、とか、そういう方向性を持ってやっていきたいのかなーーとは思ってました。
いい広告とわるい広告ってなんなの
結局、自分が損したか、得したかなんじゃないかなあーー
広告の話に限らず、今って誰がどんな表現しても、価値観は違うものだから、衝突する。
そういうのが言ってもいい、許容される世界になってるのかな、って思いますけど。
自分が納得できないもの全部に文句をつけていって、住みやすい世界にしていこうとしたら、その自分が納得できないものを許容できる人や、好きな人が、なんでそういう表現をしてはいけないのかって、やっぱり思うじゃないですか。
もちろん誰もが不満を抱いたり損をしないような世界にできたら幸せなんだろうけれど、お互いに譲れないものがあるものがあるからこそ、価値観のぶつかり合いみたいになるのかなーとは思います、
誰もが幸せになれる世界
ブログ書いてておもうのは、そういうのはむり、私はこうですって書いても、それは違うと思うよマンがいるのは仕方がない。
前に書いた雑記でもそうなんだけど、読んでくれるすべての人にわかってもらおうなんて、そんなこともう考えてもしかたない。
でも仕方ないから諦めるんじゃなくて、そうなったらきっと、いいはずだって信じている理想が自分の中であるから、表現し続けるのであって、そもそもぶつかりあってしまう人とする論争ほど、なんていうか、いや、したほうが絶対に見えなかったものが見えてくるはずだから、したほうがいいんだけど、めちゃくちゃ疲れる。
だからヨッピッピさんも、こうしてみんなどうおもつてるのかな? と思ってブログ書いたのだろうなと思う。でも段々本質的に伝えたいことが、どんどんズレていって、そういう話をしてるんじゃないんだけどお!? みたいな、一人ひとり説教部屋に呼び出して、サシで話さないとわかってもらえないみたいな地獄の様相になっててやばいなとおもいました、そして私自身も、よっぴーさんの真意がなんだったのか、わかりかねております。
結局広告の記事タイトルにPRをつけるべき?
どっちでもいいやって思ってます、つけなければならないとも思わないし、ついていてくれとも思わない、ついてたら読まない時があるというだけ。でも読むときもある・・・。
ただ積極的にはクリックしないので、明らかにタイトルにPRが入っているときの操作が変わるのは私の中では明らかなので・・・。
あとは結果的に損したら怒る。許さん。得してたらニコニコして終わる。
で、思ったけど、この「PRついてたら読まないだけ」って思ってるような層も、取りこぼしたくないっていうのもヨッピー氏は思ってくれてるのかな?
もしかしてPRついてなかったら、読んでくれてたかもしれんしなーという・・・。
良いものを書いているはずなのに「PR」なんていう文字列だけで読まれなくなってしまうのは、やはり寂しいよね。
「PR」という先入観がなければクリックしてて、すごいよい記事を読めたかもしれない? とおもったら損している気になるもんね。
おわり
インターネットおじさんとよばれる人たちがそれぞれどう思うかをかいてくれて、たくさんの人の色んな話が聞けて良かったな、と思う反面で、でもそういう表現に押しつぶされて、疲弊していくのは、辛いなっておもう、悪いことをしようとおもってかいているわけでもなく、こうなればいいなって思うことで、うまく何かを伝えていくって難しいなって、そうおもう。
私はインターネットが大好きですので、色んな話を読みたいし、様々なコンテンツによって人生が変わったり、動き出したり、押しつぶされたり、そういうこともあるって思ってるので、インターネットが好きだからこそインターネットに殺されないように、気をつけながらも、大好きなものを自分の中で信じていきたいなーて、そう思いました。