Q.はてなブログで長文語りをしていたオタクたちは一体どこへ行ったのか
A.馬岱\ここにいるぞ!!!/
こういうことしちゃうのがオタクっぽいねんな。
でもここにいるぞって言う時は馬岱が飛び出してきてしまう。
何回かブログを読ませてもらったことがあるあややさんが興味深いブログを書いていたので、せっかくなのではてなブログに書くことにした。はてなブログの話題だし。
- 世はまさに推し活時代
- 世はまさにタイパ時代
- そもそもTwitterはつぶやきであり、オタクのしゃべりがつぶやきで終わるはずもないだろ
- おそらくだけれど長文語りの定義が少しズレてるかも知れない
- しずかなインターネットのコンセプトが胸に突き刺さった
- 後にも先にもネガな話題だった気もするけど
- 自分の思うことを口にしたら炎上する世界観
- オタク怪文書は、はてなブログよりもはてな匿名ダイアリー、通称「増田」へ
- SNSを非公開で利用したいと思う人が増えている気がする
- オタクは新規参入、沼入りする新規がだ~いすき
- もう、ハマったころの熱量と視線では何かを書くことはできない
- 最終的に(自分は)個人サイトに戻るのじゃないかなと思ってる
ブログ内で言及されていること一つ一つに共感している。
世はまさに推し活時代
私がこのブログを開始した2013年当時「推し活」という言葉はまだメジャーではなかった。私自身も「推し活」ではなく「オタ活」と書いていたし「オタク」を自称していた。「オタク」という言葉はネガティブイメージからスタートしていて当時もまだその名残りがあったように覚えている。
私はひねくれたオタクなので、メディアが「推し」とか言い出した時点で萎えてしまっている。
単純にこの中でだったら、このグループメンバーだったら誰が好き?という問いに対する「推しは◯◯です」程度の感覚で使っていたのだが、今や推しがあって生活があるみたいに感じている。
推しという言葉の濫用に対する萎えに限らず、私は面倒臭いオタクなのでファンの中で話題になるようなネットミームや事象があって、それをイベントでキャストが取り上げてくれるとかは嬉しいタイプなのだが、本来表に立つことはない裏方にいる「運営」とか「公式」と呼ばれるような人々(=SNSアカウントとか)が、お墨付きを与えて表に引きずりだすような行為はなぜか苦手である。
隅っこで「おもしれ~」でやっていたものを面白いですね~といって圧倒的な権力者たるものたちが引きずり出して、キラキラとしたものに変えていくムーヴが単純に苦手なのだ。
キラキラとしたアイドルを追いかけておきながらキラキラしたものが苦手というクソ矛盾である。
距離感が近すぎるのが苦手というか。
一方で自分がコツコツとやっていたことや、嬉しかったメッセージとかを公式に拾ってもらえると嬉しいタイプだったりもする。
以前にギターをはじめたものの、ピックをすぐ失くすという問題を抱えていた。
そうした悩みを解消してくれるロックピックというものに出会ってからは助かっている。
買った時にこれはいい! となんとなくでツイートしたら、ピックを作ってる公式アカウントから「気に入っていただけて嬉しいです! 使ってるギターはZO-3ですか?」とメッセージをもらった。
ヘッドだけの写真でモロバレして、照れちゃったけど嬉しかったことが伝わってハッピーだったことがある。
なぜZO-3を使っているかというと、スピッツの草野マサムネがラジオの時に持ち込んでいるのがZO-3なのだ。
私はファンクラブに入るくらいにはスピッツが大好きである。
小学生の頃、ファンクラブの存在を知って入って見たいと思った。
しかし小学生のお小遣いでは到底お金が足りなくてファンクラブに入れず、稼げるようになったら絶対にファンクラブに入ろうと思っていたのだけれど、ようやくその夢が叶ってライブにも行けて嬉しくて仕方がない今日この頃である。
わざわざ同じサンバースト色のZO-3を探してきて購入した。オタクが推しを追っかけて買う気持ちそのままである。応援してるバンドメンバーが使ってる楽器はなんでも参考にしたい。
安定して話が脱線した。
話を戻そう。こういうのは喜ぶくせに、距離が近すぎると嫌がる。全く面倒臭いオタクである。
子供の頃は、こうした矛盾のことをおかしいことなのだと思っていたのに、年を重ねるにつれて、人とは矛盾していくものなのだと逆に納得してしまっている。
むしろ自分に矛盾にせずに生きれることの方が難しくないか。
ああいえばこういうの最たるの生き方ばかりをしている。
今まで自分たちだけが知っていて、楽しかったものが大衆化していくことがイヤなのかもしれない。
なぜなら自分たちが知っていて楽しかったことは、大衆には認めてもらえないことばかりだったからだ。
「ごめんちょっと意味わからない」「そういうのオタクっぽいよね~」みたいな反応ばかりを食らってきたのに、今は推しのいる生活が当たり前みたいになっていることへの一種の反発みたいなところもあるのかもしれない。
そもそも、推し活と呼ばれるものが推し自身に対する語りではなく、推している自分はこんなことしていますアピール合戦に見えてきている。
私は私自身には興味がなく、ただ自分が興味を抱いている人がこういうことをして、こういうところが好きで、こういうところをずっと見ていきたいという話をしたいというタイプなので、そこのギャップを感じているのかもしれない。
推し活を便利にするためには~というようなノウハウだったり、そういうものへの注目も増えた。グッズ収納術や遠征に必要なもの、役に立つ情報発信もある。
それらは大切で大変ありがたい。参考に出来ることはどんどん取り入れていきたい。
かつて自分がしてきたことの一つに含まれるけれど、自分はこうしているぜという日常報告の一つなだけだった。
自分の日常報告の一つが参考になった! といってもらえることは勿論嬉しいし、書いてよかったなと思う。
ただし、それらを極めたいわけでも、皆様の役に立てるようなことを書いていきますね!! みたいなものはなかった。
ただしていることを書いていた。
とにかくオタク趣味というものは理解してもらえないことが多かった。しかし今はもう違う。
一部でこそ、いまだその忌避感を感じる反応を見るものの、だからこそ、理解しあえるというべきか、気持ちに共感してもらえる人々との出会いは貴重であり、ネットの海に雑に流したものを読んでもらって「わかる」とただ頷いてもらえるだけの幸せでよかった。
世はまさにタイパ時代
遅れている人間なので、倍速で何かを摂取することがない。
倍速で見てまでその情報を得たいとまず思わない。欲しい情報の取捨選択は重要だ。
私はオタクをやっているが、情報はほぼ取りにいかない。
昔はよく取りにいっていた。自分から探して得なければ昔のインターネットでは欲しい情報にはありつけなかったからだ。だから検索検索ぅ!を繰り返して、公式サイトすらもない、個人のファンがどこから集めたのかわからない情報の宝を見つけにいった。
しかし今はX……つかTwitterってよばせてほしいよ、その他にインスタとか、SNSとか、そういう時代だ。
Google検索はとうに死んでおり、詐欺情報とコピーサイトとばかりが出てくるようになって、個人サイトなんてもう引っかからない。
公式がSNSにもう情報発信してるのだからあえて検索する必要もないのだ。
しかも、Twitterでそういう情報を取りにいこうとするとノイズだらけで死んでしまう。
私は大変利己的で自己中心なので、とある事象があったとしてその反応をあえて見に行くことはない。
自分がどう思ったかが大事なのであって、誰かがこう思っていて世論はこう動いているということにあまり興味を持っていないのかもしれない。
そのせいなのか、空気を読めない感じになってしまう。
ただ、こうして長文を書く時とか、自分に対して意見が飛んできた時とか、どう思いますかと尋ねられた時にようやく理由ができるので、ほな調べなという気持ちになって調べる時はある。
おもにTwitterで私はこう思うということを発信すると、私はそう思いませんと反応してくる人たちが一定数いるので、「はあん!?」となってもTwitterの140文字で語れることなんてたかが知れている。
そんな時に便利だったのがブログだ。ぷらいべったーとかもそうだった。
ようは140文字以上では語り尽くせない面倒な語りをする時に「はてなブログ」は大変有用だった。
そもそもTwitterはつぶやきであり、オタクのしゃべりがつぶやきで終わるはずもないだろ
なので私は長文壁打ち連投する。
140文字とかいう文字数制限にもめげずに、思っていることを連投しはじめるが、その大半は「あーーーーーーーーーー」とか「なるほどね」とか「ふーーーーん」という感じの言語化できないことばかりだ。
長文にするということは、こういうオタクの呻きや叫びを言語化していくということなのだが、私自身の文章に限っていえば言語化なんか出来ていない。
私はこう思うと思うことを書いているだけであって、たしかに読んで欲しさはあるけれど一番は自分の気持ちを整理していくために行っている儀式みたいなものである。
例えば、計り知れない不安や不快感とか怒りとか、自分の中でどうしてこれを理解できないのだろうという自分に対する疑問が生じることが多々ある。
よく表現される「もやもやした」とかそういうやつだ。
言葉にして誰かに伝えていくということは憚られることだけれど、伝えたいことを文章にするというのは結構有用であると思っている。
気持ちを文章にしていくと、どうして・なぜ・こんなことで怒っているのかというのがわかってくる。
壁打ちで誰にも見られてないところで書く、というマナーというか、そういうのもあるのだけれど、基本的に誰かに読んで欲しいという気持ちで、読まれるかもという気持ちで書くことで、自分でも気づいていなかったような、伝えたかった気持ちというものが文章にしていく上で出てくる時があるから不思議だ。
私はそうやって、オタクが自分の中にあるどうしてこう思っているのかという気持ちに向き合って、私はこう思うということを書き出してくれる文章を読むのが好きだった。
おそらくだけれど長文語りの定義が少しズレてるかも知れない
言及しているブログにおける長文語りとは、好きなものへの探究心や興味が溢れてやまず、この素晴らしさを、自分が体験したよかったことを書き残して同じ感動を得て欲しいと書いていくうちに、どんどこ長文語りになっていって止まらないというのを想定しているのだろうなと思っている。
そして私は先述通りそういう文章が好きだった。
過去形なのは今でも好きだけれど、読む機会がやはり少なくなったことも踏まえての過去形になってしまう。
オタクの考えた遊びもそうだ。
好きなアクスタで人生ゲームすると面白いと言っている人のブログを読んで感化されて、早速みんなでやってみたいと思って久々にオフ会をした。
めちゃくちゃ楽しかった。朝6時に集合するほぼ初対面オタクたち、元気過ぎませんか?
キンプリを見に行った時もそうだ。
これは、はてなブログでみた感想があまりにも意味不明すぎて気になったので自分も見に行こうと思った。
そして、「このブログを読んでキンプリ見た人はぜひあなたの感想も書いてほしい」とあったので、ブログに書いたのだ。
見に行こうと思った時にすでに映画が早朝か深夜かしかなくてオールナイトを選ぶあたりアタオカなのは重々承知しているのでノータッチでお願いします。
こういう楽しかったことを文章にしてくれて、それを読んだ人が影響されて、また続けて……と広がっていくのがネットの良いところで楽しいところだと思っている。
一方で私は「長文語り」の中にいわゆる「お気持ち表明」と呼ばれる文章も含めて話していきたい。
お気持ち表明という表現自体がいかがなものか? と最近言われているのも察している。
真剣に考えて言葉にしたことを自分自身が「お気持ち」というような言い回しで揶揄してしまわないと表明できないこともそうだし、自分自身でない他人が真剣に考えた文面を「お気持ち」として揶揄されてしまうところもある。
ただ、自分の気持ちが受け入れられないものであるかもしれないという恐れから自虐した上で文章を出さなければいけないという感情も理解はできるし、そもそもこれは誰にも理解してもらえないものなのだというところからでてくる「お気持ち」という言い回しには一定の理解を寄せてしまう自分もいる。
個人的にはできれば前向きなことを書いていきたいのは本音だ。
自分が感じたことの素晴らしさを文章に残して、それに感化されてくれるのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。
それでも最近、前向きであろうが後ろ向きであろうが「長文語り」を続けていくことには限界を感じる時もある。
なので、はてなブログで何か語ろうとしても手が止まってしまうことが増えた。
移行先にnoteだったりが挙げられているが、私は結局noteを使っていない。
長文語り系オタクなので、何かを書かないと死んでしまうから、はてなブログで書く頻度が下がったといのなら今は自分はどこにいるのだろうか。
しずかなインターネットのコンセプトが胸に突き刺さった
以前も話題に挙げたが、最近、私はしずかなインターネットでよく書いている。
かつてはnoteでも書いてみたが、あれは何かが違う。
読まれたいという気持ちはあるが、はてなブログもnoteも本質的に「読まれるべきものを書くべきだ」というような息苦しさを感じる。
ただの日記でいいといいながら、ただの日記に対して価値があるかないかの有無をジャッジメントする世界観がある。
私はよくイベントやライブの参加レポートだったりをよく書いていたが、それは他の人が参考になりますようにというその気持ちはあったけれど、それはメインではない。
私が書きたいから書いている。
なのに、「このレポートは役に立たない」「書いてる人の感情がですぎ」とか言われる。
役に立とうとして書いていないが? 感情のままに書いているからだが?
トドメには「読まなければよかった」「検索避けっていうマナーしってる?」とまで言われる。
勝手に検索して、勝手に検索結果からクリックして読んだのはお前なのだが?
こんなことを言われる謂れはないのだが?
もちろん書いて公開して読んでほしいと願ったからにはポジティブ以外にもネガティブな感想が返ってくるのは当たり前だ。
そうしたネガティブな感想を活かしてよりよいものを作り上げ……
作り……
なんでそんなことせなあかんねん。
別に読まれるために自分の書き方やあり方を変えたくなんかないわ。私には向上心などない。
そんな時に出会ったしずかなインターネットのコンセプトが以下だった。
しずかなインターネットは、日記やエッセイを書くのにちょうどいい、文章書き散らしサービスです。
ここでは有益な情報を書くことはあまり求められていません。「たくさんの人に読まれなくていい」「自分のために、ひょっとすると、どこかの誰かのために」そんな気楽さで文章を書くための場所です。
「自分のために、ひょっとすると、どこかの誰かのために」
これくらいの気持ちで、私は物を書きたい。
読みたい人が読んでくれたらいい。そういう免罪符をサービスがコンセプトとして与えてくれているだけで、「役に立たなかった」「書き手の感情ぐああ~」とか、役に立つ情報やらおきれいな文章を求めてやってくる人を除外してくれるような気がしているから、その日思ったこととか、好きなもののこととか、そういうものを気楽に書き残している。
後にも先にもネガな話題だった気もするけど
さて、ここから先もたくさん書いたのだけれど、後から読み直してほとんどネガティブな話題じゃね?? と気づいてしまったので、いつもの読んで欲しくない気持ちに駆られたので有料記事にしておきます。
お金を払って不快な気持ちにさせられたんだが!? 金返せ!!!! って言われても困るので最初に書いておくとお金を払うと不快になるので100円を払って不快になりたいと思われる方は買っていただければと思います。
これは私が最近考える読む人を選ぶだろう長文語りの方法です。
できたら思ったこと全部書きたいけれど中々めんどくさいんだこれが。
書くだけ書いて非公開にしたらいいんだけど、もし読んでくれる人がいるなら読んで欲しいという欲望も抑えられない。
なお、有料記事なので内容についてポストしたり転載したりすることは止めてください。
有料記事の構成は以下ですが、表題に対してちゃんと語ってるかの保証はしません。
- 自分の思うことを口にしたら炎上する世界観
- オタク怪文書は、はてなブログよりもはてな匿名ダイアリー、通称「増田」へ
- SNSを非公開で利用したいと思う人が増えている気がする
- オタクは新規参入、沼入りする新規がだ~いすき
- もう、ハマったころの熱量と視線では何かを書くことはできない
- 最終的に(自分は)個人サイトに戻るのじゃないかなと思ってる