こちらのブログはゲームやらアニメやら、日記やらで雑多な内容を書いてるので、とくにツイートせずにいたりするのですが、ツイートしたりするときは、誰か読んでほしい〜〜ッと願う承認欲求に基づいた行動なので、誰かがこのドブ川に投げ込んだこのブログを読んでくれたら嬉しい。
ツイッターでは頭に思いついたことをどんどん書いて、スターをつけてもらえることが嬉しい。
どんな理由にしろ読んでくれたのだなあというのが伝わってだからつぶやくのだとそう思う。
リプをもらえることもたまらなく嬉しい。
人と雑談したり話すことが楽しいからやりとりができて嬉しい。
でもやはり最近体調も相まって言動が支離滅裂である、残したくない言葉を残してしまう。
今までは飲み込めていたものが飲み込めなくなって、ついつい吐き出してしまうことが増えた。
ところて、自分は度々、死の恐怖に苛まれてる。
死恐怖症というのがあって、タナトフォビアという症状名まであることを3年前くらいに知った。
ここ数年、本当に近しい人の死にたくさん触れすぎて自分自身もそうだけど周りの人に対するタナトフォビアもすごくて困ってる。
おまけに新たにかかった病気からくる、何年後の生存率という説明をされたときに、さらにタナトフォビアが加速した気がする。
周りの経験だけでなく、死をあらためて身に迫るものとして再認識したというか…
だからこのブログのタイトルは、生存率に関する説明を受けたときに悩んだ挙句につけた、メメントモリというタイトルになっている。
自分が必ず死ぬという終わりの先が見えない恐怖、死を通すからこそ生きられる。
おそらく、これから共に生きていく人たちと比べれば生存率は低いのかもしれないなあと考えつつ、最近はずっと「でも誰が明日死ぬかわからないという意味においては生存率は一緒なのでは…」とか考えはじめた。
確率論などは知らんので、病気でいつか必ず死ぬという生存率は低くても、突然訪れるかもしれない事故死などはあんまし変わらないのではないか、とか。
生死は厳かで繊細でデリケートな話題だ。
ついこないだはずっと承認欲求にまみれてて、死んだら死んでしまったと誰かに絶対に認知されたいとか考えていた。
ツイッターが途絶えたらそれは飽きたとかじゃなくて死んだんだと思ってほしいという、最期の承認欲求。
まあそんなで悩みがある、たぶん疲れとか色々ある。
タナトフォビアは、同じように病気で苦しんでた2、3年前の時期にもかかっていて、でも、そのときにうたプリに夢中になれたせいで、タナトフォビアの苦しさから抜け出せた。
うたプリを知って新たな苦しみはあったけど、そういう悩みで苦しめていることが、生きていける理由、うたプリを追いかけることで、死んでしまうかもなんてことを考えることすら忘れられて、すごく嬉しかった。
悩んで苦しんで、歌を聴いて感動して。
うたプリはやはり、シャイニング事務所のアイドルは生きる理由や希望を与えてくれたんだと感謝してる。
そして今、またタナトフォビアに苦しむのは、うたプリの魔法が解けかかってるのだろうかと悩ましくなる。
私は私自身の考えをブログに書くし、それをよんでどう思うかは、その人にお任せしたい。
最近はブログにコメントを残してくださる人が増えて嬉しい。返事ができていない点も含めて申し訳ないけれど。
私自身の考え方がずるいときも、ズレてるけど甘えからそう考えていることがある、でもそれは話す必要はないことだと思っていたのだけど、頭にくるとすぐそうしてしまうので、若干の後悔はしつつも、何がどうなっても、もうそれでいいんじゃないのと、思ってしまった自分が辛い。
ちなみにこの日記はわりと頭の中の整理なので、文脈ないですし、伝えたい意思などは配慮されていません。
楽しいことだけで消化できたらいいのに…
次は、華アワセをいかにネタバレせずに読んだ人がプレイしたくなるようなブログを書きたいとか思ってたのに気づいたらこうなってしまった。
ああ、今度はどう書こうか、何を書こうか、
どこへ行こうか…